「もっと体力をつければ速くなれる」「筋トレで出力を上げればタイムが縮まる」 多くのスイマーやトライアスリートが、この「足し算の思考」に陥っているように感じます。
しかし、プールサイドで誰よりも必死に腕を回し、力強くキックを打っているのに、なぜか進まない。それどころか、泳げば泳ぐほどフォームが崩れ、消耗だけが蓄積していく…。
そんな「空回り」を経験したことはないでしょうか。
先日、プロトライアスリートの平柳選手(ひらめちゃん)に対してスイム指導を行う機会がありました。トップアスリートである彼女でさえ、スイムに対しては「頑張っているのに、出力が推進力に変換されないな」という感覚的なズレを抱えていました。

今回の指導で私が提示したのは、新しいトレーニングメニューではなく、泳ぎのテクニックおよび「身体操作の解像度を高めること」でした。
以前の記事『スイマーにとってのウエイトトレーニング:陸上と水中の融合』で触れた「筋出力の統合」や、『泳ぐ強度による代謝反応の違い』で解説した「エネルギー効率」の観点を、いかに実際の水中動作へ落とし込むか。
指導によって得られた変化のプロセスを、専門的な視点から深掘りしていく、そんなブログ記事です。
【指導前の分析】パワーや持久力はあっても「水と喧嘩」している状態
動画の冒頭、平柳選手のビフォー(指導前)の泳ぎを分析すると、ある典型的な課題が見えてきました。
それは、持久系アスリート特有の「高い出力維持特性」が、逆にブレーキを作ってしまっているという皮肉な現象。

「点の力」が「線の推進力」を阻害する
彼女の泳ぎには力強さと丁寧さがあります。しかし、その力は「点」で発生しており、一本の線として繋がっていない感じです。具体的には、エントリー(入水)の瞬間に肩周りに過剰な緊張が入り、水に対して適切な力を与えられていないようなイメージ。水は流体です。叩けば反発しますし、抵抗となったりします。
本来、前方へ進むために使いたいエネルギーが、誤ったローリングや上下動や水しぶきという「ノイズ」として散乱してしまっていました。
「筋力」という素材を活かすための「翻訳作業」
私は常々、陸上での筋トレは「素材作り」に過ぎないとお伝えしています。
平柳選手は素晴らしいハードウェア(素材)を持っています。しかし、その素材を水中で「推進力」という商品に変換するための「翻訳(技術)」が欠けていた感じ。「どこで力を入れるか」ではなく、「どこまで力を入れないか」。この引き算の視点が、彼女の泳ぎを変える鍵となります。
【指導内容】「出力のタイミング」と「連動」の再構築
指導において私が最も重視したのは、単なるフォームの修正ではなく、「脳内の出力スイッチ(運動イメージ)を書き換えること」です。
動画内で平柳選手が「あ、今のは楽に進んでる!」と口にした瞬間、彼女の身体の中では以下の3つのパラダイムシフトが起きていたように感じます。
① 「キャッチ」から「プル」への間を作る:水の重みを感じる時間

多くのスイマーが、手が水に入った瞬間に掻き始めます。これは「急ぎすぎたストローク」です。平柳選手への指導では、エントリー後にあえて「間を作る」時間を提案しました。
- 技術的意図: 指先が斜め下を向く「キャッチ」の局面で、水が掌に当たっている感覚(ホールド感)を確認する。
- 変化: 焦って空気を掻く動作がなくなり、大きな「水の塊」を捉えてから後ろへ運ぶ動作に変わっていきます。これは、自動車で言えば「クラッチを丁寧に繋いでからアクセルを踏む」感覚に近い。
② 対角線の連動:キックを「出力のトリガー」にする

トライアスリートにとって、キックは「進むための道具」以上に「リズムを作るための道具」であるべきです。
- 動きのメカニズム: 右手の入水と同時に、対角にある左足のキックを打ち込む。
- 指導の内容: このタイミングが一致すると、胴体を介した「トルク(回転力)」が発生します。腕の力だけで掻くのではなく、キックが生み出した体幹の回転に腕が「乗る」ようなイメージ。
- 平柳選手の変化: 彼女の泳ぎから、バラバラだった「腕」と「脚」の境界線が消えました。全身が一つの連動体として機能し始め、ストロークに力みがなくてもスピードが落ちない「高効率な泳ぎ」へと進化。
③ リカバリー動作の運動イメージについて

腕を水面上に戻すリカバリー動作。ここで肩や腕の筋肉が過度に緊張し続けているスイマーは非常に多い。
- アドバイス: 「力の入っている動きを認識して、必要なタイミングで力を発揮するようにイメージしてみよう!」
「スイミング・エコノミー」:なぜ速くなるのに楽なのか?
数キロを泳ぎ、その後にバイクとランを控えるトライアスリートにとって、最も追求すべきは「スイミング・エコノミー」ですね。

代謝効率をデザインする技術
以前の代謝の記事で解説したように、強度が上がれば主なエネルギー源は脂質から糖へとシフトします。しかし、同じ「時速〇km」で泳ぐにしても、技術介入によって「主観的運動強度(RPE)」を下げることは可能でしょう。
エンジンの出力を、いかにロスなくプロペラ(手足)へ伝えるかという「駆動系の最適化」を目指します。

身体の「解像度」を上げよう
「水の重み」というフィードバック
泳ぎが上手くなるということは、水を感じる「センサー」の感度が上がることです。
- Before: 自分の腕をどう動かすかという「内側」への意識。
- After: 水の壁をどこに作るかという「外側(環境)」への意識。
この視点の転換こそが、トップアスリートへの指導において最も重要なポイントでした。私の役割は、彼女が元々持っていた高い身体能力を、スイムという特殊な環境下で正しく機能させるための「回路」を繋ぎ直すことでした。
あなたの泳ぎを変えるための「処方箋」
この記事を読んでいるあなたにも、平柳選手が体感した「水の上を滑る感覚」を味わってほしい。そのために、明日からの練習で意識してほしいステップがあります。
- 「入水=即・掻く」を卒業する: 手を伸ばした先で、一瞬だけ「間を作る(水の流れを感じるだけの)」時間を作ってみてください。
- キックをスイッチにする: キックを「打つ」のではなく、体幹を「回すためのスイッチ」として、手の入水とタイミングを合わせてみてください。
- 「頑張る」場所を限定する: 25mずっと頑張るのではなく、キャッチからプル動作への「一番水が重いところ」だけに出力を集中させ、それ以外は徹底的にサボるようにしてみてください。
これらはすべて、陸上でのトレーニングで培った「身体をコントロールする力」があってこそ実現できるものです。
結論:技術は「根性」を裏切らない
今回の平柳選手への指導を通じて、改めて痛感したのは、「正解の感覚」を知ることで進化するってこと。
100回の根性練習よりも、1回の「正しいタイミング」の体感すること。それが身体を通して脳に刻まれたとき、パフォーマンスは成長を遂げるかもしれませんね。
スイム技術、陸上トレーニング、そして生理学。これらを個別の要素として捉えるのではなく、一つの「勝利のためのシステム」として統合すること。私が目指す「スポーツパフォーマンス向上への最適解」。
「自分はスイムが苦手だ」と諦める前に、もう一度自分の身体の「出力のタイミング」を疑ってみてください。正しく水を捉え、正しく力を逃がす。みんなで上達していこー。

