はじめに
「なんとなく」の練習から卒業しよう
水泳の練習メニューを組み立てる皆さん、今日の練習メニューはどうやって決めましたか?
「昔、自分が選手だった頃に速くなったメニューだから」
「強豪チームがやっていると聞いたから」
「とりあえず、距離を泳がせておけば安心だから」
もし、ドキッとした方がいても大丈夫です。多くのコーチが通る道です。かくいう私自身も、かつてはそうでした。しかし、選手から「コーチ、今日のこのセットにはどういう意味があるんですか?」とキラキラした目で聞かれたとき、あなたは即座に、そして論理的に答えられるでしょうか。私もコーチなりたての頃は、しっかりと答えられませんでした。。
スポーツ指導の現場には、いまだに「経験則」や「勘」だけに頼った指導が多く存在しています。もちろん、経験は素晴らしい財産です。しかし、それだけでは説明がつかない現象もまた、プールの中では日々起きています。「去年と同じメニューで、同じように追い込んでいるのに、なぜか記録が伸びない」という壁にぶつかったことはありませんか?
身体は、慣れます。
そして慣れた瞬間、成長は止まります。ただ闇雲に距離を泳ぐことや、根性論で追い込むことだけがトレーニングではありません。選手の身体の中で起きている「エネルギーの代謝」は、泳ぐスピードや休憩時間(レスト)がわずかに変わるだけで、劇的に変化するケースもあるのです。
本記事は、あなたが「なんとなく」作成していた日々の練習メニューを、「意図を持った」設計図へと進化させるためのガイドブックです。メニューの裏側にある「なぜ?」を理解することで、あなたの指導は単なる「作業」から、選手を成長させる「クリエイティブな仕事」へと変えていきましょう。
コーチの役割は「選手の身体と対話」すること
トレーニングメニューを設計するということは、選手の身体への「手紙」を書くようなものです。「今日は君の心肺機能に刺激を入れたい」「明日は筋肉の使い方のズレを修正しよう」ーーそんなメッセージを、距離やサークル、本数という数字に変換して伝えるのです。
しかし、ここで忘れてはならない重要な視点があります。それは、受け取り手である選手は「ロボットではない」ということです。従来のトレーニング理論(ピリオダイゼーションなど)は、計画通りに負荷をかければ、誰もが同じように成長するという前提で語られがちでした。ですが、実際には選手一人ひとりの反応は異なります。特に、選手の「心理や感情」を無視して設計された完璧な理論上のメニューは、現場では機能しないことが多々あります。
ストレスや不安、モチベーションの低下は、パフォーマンスに直接影響を与えます。だからこそ、コーチの役割は一方的にメニューを押し付けることではありません。生理学的なデータやタイムという客観的な指標を見つつ、選手とのコミュニケーションを通じて「今の状態」を感じ取る。つまり、メニューを通して「選手の身体(および心)と対話」することが求められるのです。
本記事では、生理学的な基礎知識だけでなく、こうした「人間としての選手」に向き合うための視点も大切にしていきます。
本記事のゴール:科学的根拠(エビデンス)と、現場の感覚(アート)の融合
この本を読み終える頃、あなたの手元にはきっと二つの武器が備わっているはずです。
一つは、「科学的根拠(エビデンス)」です。
ATPとは何か、乳酸はどう働いているのか、インターバルにはどんな種類があるのか。これらを知ることは、トレーニング作成の確固たる「指標」となります。生理学的なメカニズムを知れば、「この練習は1500mの選手には有効だが、50mの選手には今日やるべきではない」といった判断が論理的にできるようになると思います。
もう一つは、「現場の感覚(アート)」の再確認です。
科学はきっと万能ではありません。論文の結果がそのまま目の前の選手に当てはまるとは限らないでしょう。科学的知識をベースにしつつも、それをどうアレンジし、どう伝え、どう選手をその気にさせるか。そこにはコーチそれぞれの個性や哲学、つまり「アート」が必要です。
科学を知ることで、無駄な苦しみを選手に与えなくて済みます。 アートを磨くことで、選手は練習に「納得感」と「情熱」を持って取り組めるようになると思います。
選手の才能を開花させるための、最高の練習メニューを一緒に作り上げていきましょう。
第1章:エンジンの仕組みを知る【エネルギー供給システムの基礎】
1-1. 人体というハイブリッドカー
車が走るためにはガソリンや電気が必要なように、人間が筋肉を動かして泳ぐためには燃料が必要です。その燃料となる物質を「ATP(アデノシン三リン酸)」と呼びます。
少し小難しい名前ですが、要するに「筋肉を動かすための通貨(お金)」だと思ってください。私たちは食事から炭水化物や脂質を摂取しますが、それらはそのままでは筋肉の燃料になりません。体内で分解・合成を繰り返し、最終的にこの「ATP」という通貨に換金されて初めて、筋肉は収縮し、水を押すことができるのです。
さて、ここからが面白いところです。人間の身体は、このATPを作り出すために、非常に高性能な3つのエンジン(エネルギー生産システム)を搭載したハイブリッドカーのような構造をしています。
- ホスファゲン系(ATP-PCr系):アクセル全開!爆発的加速のためのニトロエンジン
- 解糖系:高回転でパワーを持続させるターボエンジン
- ミトコンドリア系(酸化系):燃費重視でどこまでも走るディーゼルエンジン
私たちがプールで泳ぐとき、スイッチ一つでこれらを切り替えているわけではありません。常に3つのエンジンは同時に動いていますが、泳ぐ「時間」と「強度」によって、どのエンジンが主役になるか(貢献度)が劇的に変わるのです。
コーチとしてメニューを組む際、今どのエンジンを強化しようとしているのかを意識することは、地図を持ってドライブに出かけるのと同じくらい重要です。
1-2. エネルギー回路の3つを理解する
それでは、3つのエンジンそれぞれの特徴を、少しだけ詳しく見ていきましょう。ここを理解すると、なぜ「50mの練習」と「1500mの練習」が全く別物でなければならないのかが、腑に落ちるはずです。
① ホスファゲン系(別名:ATP-PCr系)
これは「爆発的エネルギーシステム」です。
筋肉の中に蓄えられている「クレアチンリン酸(PCr)」という物質を使って、瞬時にATPを作り出します。
- 特徴: とにかく立ち上がりが速い。スタートの合図とともにドカンとパワーを出せます。
- 弱点: 燃料タンクが非常に小さい。全力で動くと、0〜6秒程度でピークを迎え、約1.3秒あたりからすでに出力が落ち始めます。
つまり、壁を蹴って浮き上がり、数かきするあたりまでがこのシステムの独壇場です。非常に強力ですが、あっという間にガス欠を起こす、儚いエンジンとも言えます。
② 解糖系
ホスファゲン系の燃料が切れかかると、主役の座を奪いにくるのがこのシステムです。これは「糖(グルコース)」を分解してエネルギーを作ります。このとき、副産物として「乳酸」が発生するのが特徴です。
- 特徴: 高い強度の運動をある程度持続させることができます。
- 稼働時間: およそ3〜60秒の間で活躍します。
- 弱点: 糖を急激に分解するため、長くは続きません。20〜30秒あたりから出力の減衰が始まります。
50mや100mのレースにおいて、中盤から後半にかけての粘りを支えるのがこのエンジンです。いわゆる「キツい」と感じる場面でフル稼働しています。
③ ミトコンドリア系(別名:酸化系)
最後は、酸素を使って糖や脂質を燃やす「持久的エネルギーシステム」です。細胞内のミトコンドリアという工場で、コツコツとATPを生産します。
- 特徴: 燃費が良く、長時間稼働できます。
- 稼働時間: 運動開始から3秒後にはすでに動き出しており、9秒ほどで生産のピークを迎えますが、その後も減衰することなく働き続けます。
「有酸素運動」と呼ばれる領域はここが担当します。爆発力はありませんが、練習の大半の時間、そして200m以上のレースでは、このエンジンの性能が勝敗を大きく左右します。
1-3. 時間と強度のマトリクス
「全力で泳ぐ」と言っても、それが15秒間なのか、4分間なのかによって、体の中の事情は全く異なります。コーチは、ストップウォッチを見ながら、選手の体内でどのエンジンの比率が高まっているかを想像する必要があります。
以下は、全力運動をした際の時間経過と、エネルギー供給の割合(有酸素:無酸素)の変化です。
- 12秒間(25m全力など): 有酸素性(1) : 無酸素性(9)
- 30秒間(50mレースなど): 有酸素性(3) : 無酸素性(7)
- 2分間(200mレースなど): 有酸素性(6) : 無酸素性(4)
- 4分間(400mレースなど): 有酸素性(8) : 無酸素性(2)
驚くべきことに、わずか2分間の運動(200mレース相当)であっても、エネルギーの6割は「有酸素性(ミトコンドリア系)」から供給されています。4分間泳ぎ続けるなら、その8割が有酸素性です。
つまり、どんなにスプリンターであっても、ミトコンドリア系のエンジンを無視しては、後半に大失速する車になってしまうということです。逆に、50mの選手に延々と長い距離を泳がせても、肝心の「無酸素性エンジン(残り7割を占める部分)」の出力アップには直結しにくいこともわかります。
1-4. 乳酸は「悪者」ではなく「バロメーター」
最後に、水泳界で長年誤解されてきた「乳酸」について少し触れておきましょう。「乳酸が溜まって体が動かない」という表現をよく使いますが、乳酸自体は疲労物質というよりも、糖が分解される過程でできる「エネルギー源」の一種と考えられています。
レース後の血中乳酸濃度を調べた興味深いデータがあります。
- 最も乳酸値が高いレース: 100mと200m
- 意外と乳酸値が低いレース: 50mと1500m
なぜ、最も速く泳ぐ50mの乳酸値が低いのでしょうか?
それは、50mのレース時間(20数秒)が短すぎて、乳酸が発生する「解糖系」がフル稼働する前に、より素早い「ホスファゲン系」で多くをカバーできてしまうからです。
一方、1500mは運動強度が(スプリントに比べて)低いため、乳酸が爆発的に増える前に処理されていくからです。
つまり、練習後に「乳酸出たー!」と叫んでいる選手がいても、50mのショートスプリント練習直後であれば、実はそこまで乳酸は出ていないかもしれません。コーチとしては、「乳酸が出る=良い練習」と短絡的に捉えるのではなく、「今日はどの代謝システムを刺激したいのか?」という意図を持つことが大切です。
第2章:1回の練習を組み立てる【マイクロ・プログラミング】
2-1. メニューの基本構造は「フルコース料理」
練習メニューを作成する作業は、シェフがコース料理を考えるのに似ています。
いきなりメインディッシュのステーキ(高強度セット)を出しても、胃(身体)がびっくりして消化不良を起こしますし、最後のデザート(クールダウン)がなければ、満足感や翌日への余韻が台無しになります。
一般的に、水泳の練習メニューは以下の4つのブロックで構成されます。
- W-up(ウォーミングアップ): エンジンを温める
- Pre-set(プリセット): 神経系を起こし、メインへの準備をする
- Main-set(メインセット): 今日の「目的」を達成する核心部
- Down(クールダウン): 興奮した身体を鎮め、回復を促す
「そんなの当たり前だよ」と思いましたか?しかし、現場では意外とこの役割分担が曖昧になりがちです。
例えば、W-upで「SKPS(Swim-Kick-Pull-Swim)400m」と書いて、選手がだらだら泳いでいるのを何となく眺めながら待っていませんか?
W-upの目的は、体温を上げ、関節の可動域を広げ、水感を掴むことです。時には心拍数を意図的に上げるダッシュを入れて、「今日はここから頑張るぞ」というスイッチを入れる必要があります 。
また、Main-setの直前に、ドリルや短いスプリントを含む「Pre-set」を入れることは非常に有効です。メインで使うべき筋肉や動作を予行演習させることで、メインセットの質が向上するからです。
2-2. 目的を明確にする:「何を」鍛える練習なのか?
「今日は頑張らせる日だ!」
これだけでは、メニューの意図としては不十分です。第1章で学んだ通り、強度によって身体の中で使われるエネルギーシステムは異なります。
泳ぐ強度の違いによって、体内の代謝物が明確に異なります。
- 中強度(Critical Speed以下): 脂肪酸の代謝物が増加します。つまり、脂肪を燃やしてエネルギーを作る「有酸素性ベース」を作る練習になります。
- 最大強度(全力): 乳酸やピルビン酸が急上昇します。これは糖質を一気に分解する「解糖系」や「ATP-PCr系」を刺激する練習です。
コーチが「中強度で長く泳がせたい(脂肪代謝・有酸素能力を高めたい)」と意図しているのに、選手が良かれと思ってペースを上げて全力で泳いでしまったらどうなるでしょうか?
「頑張ったから偉い」ではありません。代謝の視点で見れば、それは「目的と違う反応を体に起こしてしまった」ことになります。
メニューを組む際は、「今日は脂肪を燃やす回路を太くするのか」「糖を爆発させる回路を鍛えるのか」を明確にし、それを選手に伝える言語化能力が求められます。
2-3. インターバルトレーニングの魔術
水泳の練習といえば「インターバル」ですが、ここにも科学のメスが入っています。近年、陸上競技や自転車競技の研究から「HIIT(高強度インターバルトレーニング)」や「SIT(スプリント・インターバルトレーニング)」という分類が明確化され、水泳にも応用され始めています 。
この2つは似て非なるものです。使い分けを見てみましょう。
① HIIT(高強度インターバルトレーニング)
- 目的: 有酸素性能力(VO2max)や持久力の向上
- 特徴: 「キツいけれど、ギリギリ続けられる」強度。
- レシピ例:
- タバタ式: (20秒全力:10秒休憩)× 8セット
- ロング・インターバル: (4分ハード:3分休憩)× 4セット
- ポイント: 休憩(レスト)を短く設定し、不完全回復の状態で次の本数をスタートさせることで、心肺機能に強烈な負荷をかけます。
② SIT(スプリント・インターバルトレーニング)
- 目的: 純粋なスピード、無酸素性能力の向上
- 特徴: 「完全な全力」。出し切る。
- レシピ例:
- (10秒全力:60秒休憩)× 6セット
- (6秒全力:54秒休憩)× 10セット
- ポイント: ここでの最大の鍵は**「長い休憩(レスト)」**です。運動時間の5〜10倍の休みを取ります。
2-4. レスト(休憩)は「サボり」ではない
日本の真面目なコーチや選手ほど、SITのような「6秒泳いで54秒休む」というメニューに罪悪感を抱きがちです。「こんなに休んでいて強くなるのか?」と。
しかし、第1章の「ホスファゲン系」を思い出してください。爆発的なパワーを生む燃料(クレアチンリン酸)は、使い切ると回復するのに時間がかかります。もし、SITの休憩を短くして「10秒レスト」で次に行かせたらどうなるでしょうか? 燃料が回復していないため、2本目以降はスピードがガクンと落ちます。それでは「最高速度を出す練習」ではなく、ただの「我慢大会」になってしまいます。
スピードを上げたいなら、勇気を持って休ませる。持久力を上げたいなら、心を鬼にして休ませない。
レストの長さを10秒変えるだけで、その練習が「スピード練習」になるか「持久力練習」になるかが決まります。メニュー作成とは、泳ぐ距離を決めるだけでなく、この「空白の時間(レスト)」をデザインすることでもあるのです。
第3章:シーズンを通して強くなる【ピリオダイゼーションの理論】
3-1. ピリオダイゼーション(期分け)とは?
毎日、最高の練習メニューを作れるようになったとします。
では、その「最高のメニュー」を365日繰り返せば、選手は世界一になれるでしょうか?
答えは「No」です。なぜなら、人間の身体はとてつもなく優秀で、そして少しばかり「飽きっぽい」からです。
専門的にはこれを「適応(Adaptation)」と呼びます。
最初はキツかった練習も、続けるうちに身体が慣れ、楽にこなせるようになります。これは生存本能としては素晴らしいことですが、トレーニングとしては「刺激不足」となり、成長の停滞を招きます。
そこで登場するのが「ピリオダイゼーション(期分け)」という考え方です。
シーズン全体を「準備期」「強化期」「調整期」などのブロックに分け、時期ごとに「何を優先して鍛えるか」を変えていく戦略のことです。
- マクロ(大きな視点): 年間計画やオリンピック4年計画
- メソ(中くらいの視点): 数ヶ月単位のブロック
- マイクロ(小さな視点): 1週間や日々のメニュー(第2章の内容)
ピリオダイゼーションとは、選手がマンネリ化して成長が止まってしまわないよう、意図的に「変化」を与え続け、狙った試合の日にパフォーマンスのピークを持ってくるための「航海図」なのです。
3-2. 様々な計画モデルと使い分け
航海図にはいくつかの「型(モデル)」があります。選手のレベルや種目によって、どの型が合うかは異なります。代表的な3つのモデルを紹介しましょう。
① 線形ピリオダイゼーション(Linear Periodization)
これが最も古典的で、王道のスタイルです。
「最初は量(距離)を多くして土台を作り、強度(スピード)を上げながら量を減らしていく」という流れです。
- イメージ: ピラミッド建設。広い土台を作ってから、高く積み上げる。
- メリット: 初心者やシーズン序盤の選手にとって、怪我のリスクを抑えながら基礎体力をつけやすい。
- デメリット: シーズン終盤に「スピード」ばかりやっていると、最初に培った「持久力」が落ちてしまうことがある(これを「脱トレーニング」と言います)。
② 起伏性ピリオダイゼーション(Undulating Periodization)
別名「非線形」とも呼ばれます。日ごと、あるいは週ごとに、強度と量を頻繁に変化させる手法です。
例えば、「月曜は持久力、火曜はスピード、水曜は筋力」といった具合に、コロコロと刺激を変えます。
- イメージ: ジェットコースター。常に変化があり、身体を飽きさせない。
- メリット: 複数の能力(持久力とスピードなど)を同時に維持・向上させやすい。また、精神的にも飽きにくい。
- デメリット: 計画が複雑になりがちで、疲労の管理が難しい。
③ ブロック・ピリオダイゼーション(Block Periodization)
主に中上級者や持久系アスリート向けの手法です。特定の能力(例:有酸素能力だけ)を2〜4週間ほど集中的に鍛え、次のブロックでは別の能力(例:スピード)を鍛える、というように「一点突破」を繰り返します。
- イメージ: 科目別集中講義。「今月は英語漬け、来月は数学漬け」。
- 重要な概念: 「残存効果(Residual Effects)」。鍛えた能力は、トレーニングをやめてもしばらくは体に残ります。例えば、有酸素持久力は30日程度持ちますが、最大スピード能力は5日程度で落ちると言われています。この「賞味期限」を計算に入れながらブロックを積み重ねていきます。
3-3. テーパリングとピーキング
どんなに素晴らしいトレーニングを積んでも、試合当日に疲労困憊では意味がありません。重要な試合に向けて練習量を減らし、疲労を抜きつつ調子を上げていく作業を「テーパリング」「テーパー」と呼びます。
ここでは、実際のトップ選手の事例を見てみましょう。ある世界クラスの400m個人メドレー(IM)選手が、欧州選手権で銅メダルを獲得するまでの1年間の記録があります。
この選手のシーズンは、大きく3つのマクロサイクル(大きな波)で構成されていました。
- 第1マクロサイクル(基礎構築): まずは「有酸素能力」の向上に重点を置きました。ピラミッド型(低強度多め)の練習で、身体のエンジンを大きくしました。
- 第2マクロサイクル(特異的強化): 次に、「閾値(LT)」や「耐乳酸」のトレーニング比率を上げ、レースに近い強度での泳ぎを磨きました。
- 第3マクロサイクル(ピーキング): 重要な試合の直前です。ここでは「ポラライズド(極性化)」と呼ばれるモデルに移行しました。つまり、「とことんゆっくり泳ぐ」か「レーススピードで泳ぐか」のメリハリを極端につけ、中途半端な疲労を残さないようにしました。
さらに、この選手はシーズン中に合計4回もの高地トレーニング合宿(合計でシーズンの23%)を行い、血液データを向上させました。
結果どうなったか?
重要な試合で自己ベストを更新し、メダルを獲得したそうです。ここで注目すべきは、「1年中同じ練習をしていたわけではない」という点です。時期によって「有酸素」→「閾値」→「レーススピード」と、まるで変身するかのようにトレーニングの重点を変えていったのです。
3-4. 計画は「生き物」である
ここまで理論を話してきましたが、最後に一つだけ注意点を。どんなに完璧なピリオダイゼーション計画を作っても、その通りに進むことはまずありません。選手は風邪も引けば、恋もしますし、テスト勉強で寝不足にもなります。
従来のピリオダイゼーションの弱点は「選手の感情や精神状態」を計算に入れていないことかもしれません。
「今日は計画では高強度のブロックだが、選手の顔色が悪いな」と思ったら、勇気を持ってメニューを変更する。それもまた、立派なピリオダイゼーションの一部です。
計画表(紙)を見るのではなく、目の前の選手(生身の人間)を見ること。 それが、理論を結果に結びつけるための最後のピースです。
第4章:トレーニング効果を最大化する「強度分布」
4-1. 練習の「偏り」こそが強さを作る
「毎日、そこそこ頑張る」。これが一番、強くならないかもしれません。
人間の身体は、中途半端な刺激には中途半端にしか適応しないからです。
トップアスリートのトレーニングを分析すると、強度の配分には明確な「偏り」があることがわかっています。世界中で議論されている二大派閥、それが「ピラミッド型」と「ポラライズド(極性化)型」です 。
① ピラミッド型(Pyramidal Model)
これは、最も古典的で、多くのエリート選手(特に長距離ランナーやボート選手など)が採用しているスタイルです 。
- Zone 1(低強度): 全体の約70〜80%
- Zone 2(中強度・閾値): 約15〜20%
- Zone 3(高強度): 約5〜10%
文字通り、底辺(低強度)が広く、強度が上がるにつれて量が減っていくピラミッドの形です。基礎をじっくり固める時期や、マラソンのように中強度の持続が重要な種目に向いています 。
② ポラライズド型(Polarized Model)
こちらは「白黒はっきりつけたい」タイプです。「極性化」という名の通り、両極端に振ります 。
- Zone 1(低強度): 全体の約75〜80%
- Zone 2(中強度・閾値): ほぼ0〜5%(ここを避ける!)
- Zone 3(高強度): 約15〜20%
「中強度(Zone 2)」をあえて減らし、その分を「高強度(Zone 3)」に回します。中途半端に疲れるくらいなら、楽に泳いで回復するか、徹底的に追い込むかの二択にするのです。これは、1500m走のような中距離種目や、よりキレのあるスピードが求められる時期に効果的だと言われています。
どちらを選ぶべきか?
おそらく正解は「時期による」です。
例えば、ある世界トップレベルの400m個人メドレー選手は、シーズン前半はピラミッド型で基礎とスタミナを作り、試合が近づくにつれてポラライズド型に移行して、レーススピードと疲労抜きのメリハリをつけていました。
共通して重要なのは、どちらのモデルであっても「全練習の約8割は低強度(Zone 1)で行われている」という事実です。「練習=苦しいもの」と思い込んで毎日ハードに泳がせることは、実は科学的には「強くなるチャンス」を潰している(高強度を行うための余力を削いでいる)可能性があるのです。
4-2. 陸上トレーニング(ドライランド)との融合
水泳選手にとって、筋力トレーニング(ウエイトトレーニング)は「泳ぎが重くなるから嫌だ」と敬遠されがちです。しかし、近年の研究では、適切に組み込まれた陸上トレーニングは、泳ぎを邪魔するどころか、パフォーマンスを飛躍させる鍵になることがわかっています。
「干渉効果」を恐れすぎない
持久的な練習(水泳)と、筋力的な練習(ウエイト)を同時に行うと、お互いの効果を打ち消し合ってしまう現象を「干渉効果(Interference Effect)」と呼びます。
しかし、近年の知見では、適切な休息(例えば、ウエイトの後に数時間空ける、あるいは日を変えるなど)を取れば、この干渉は最小限に抑えられ、むしろ相乗効果が得られることがわかっています。
実際、エリートボート選手の冬期トレーニングでは、水上練習を補完的なレベルに抑え、陸上での筋力・パワー向上にガッツリ時間を割くことで、シーズン本番の無酸素能力(爆発力)を大幅に向上させています。水泳でも、特にスタートやターン、スプリント局面でこの「陸で作ったパワー」が活きてきます 。
プールでできないことを、陸でやる
水泳の練習は、何千回も腕を回す「超・高回数トレーニング」です。
つまり、プールの中ですでに「筋持久力」は十分に鍛えられています。それなのに、陸に上がってまで「腕立て伏せ100回!」のような高回数の筋トレをする必要があるでしょうか?
陸上トレーニングで狙うべきは、水の中ではかけられない「高負荷(重さ)」です。
- 最大筋力(Max Strength): 1回〜5回しか持ち上げられない重さ(1RMの80%以上)を扱う。
- 目的: 筋肉を太くすること(筋肥大)よりも、神経系を鍛えて「火事場の馬鹿力」をいつでも出せるようにすること。
「高重量なんて持ったらムキムキになって水抵抗が増える!」と心配する選手もいますが、高負荷・低回数のトレーニングは、意外と筋肉を肥大させずに筋力だけを伸ばす効果が高いのです(神経系の適応)。
逆に、中途半端な重さで回数をこなす(10〜15回)ボディビルダー的なトレーニングの方が、筋肥大(ムキムキ)を招きやすいのです。まぁほとんどの場合は、その程度のやり方でムキムキになるケースはありませんが。
コーチへの提言
陸上トレーニングは「水泳の罰ゲーム」ではありません。
プールでは養えない「エンジンの排気量(最大出力)」を大きくするための、重要な強化パーツです。トップスイマーの事例でも、懸垂のパワーがシーズンを通して約10%向上しており、それが競技力向上に寄与しています 。
「水泳選手は水の中で強くなる」は真実ですが、「水の中だけで最強になれる」とは限らないのです。
第5章:数字に表れない「心」と「感覚」のデザイン
5-1. メニューはラブレターである
ここまで、ATPや乳酸、ピリオダイゼーションといった「理論」を学んできました。
これらは最強の武器ですが、使い方を間違えると、選手を追い詰める凶器にもなります。
完璧に計算されたトレーニング計画(Excelで作った美しい表)があるとしましょう。しかし、それを実行する選手が「やらされている」と感じていたり、精神的に不安定だったりすれば、その計画は画餅に帰します。
従来のピリオダイゼーション理論の最大の落とし穴は、「人間をロボットのように扱ってしまうこと」にありました。「負荷をかければ、反応する」という前提は、半分正しくて、半分間違いです。実際には、選手の精神的・感情的なストレスは、トレーニングの効果を大きく左右します。ストレスや不安を抱えた状態では、同じ練習をしてもパフォーマンスは上がらず、むしろ怪我のリスクが高まることさえあります。
だからこそ、私が提案したいのは「メニューは、選手へのラブレターである」というマインドセットです。
「君にこうなってほしいから、この練習を贈るよ」という想いが、数字の羅列の裏側に透けて見えるかどうか。
選手との信頼関係を築き、フィードバックを積極的に取り入れることで、選手の中に「自己効力感(自分ならできるという感覚)」や「目的意識」が生まれます。
「コーチが言うからやる」のではなく、「自分が速くなるために、これが必要なんだ」と選手自身が腹落ちした瞬間、トレーニング効果はきっと大きく跳ね上がるのです。
5-2. ミトコンドリアをご機嫌にする
「心」の話をしましたが、実は「身体(細胞)」も感情を持っているかのように振る舞います。それは「飽き」です。
「このメニューで先輩が速くなったから」といって、1年中、毎週月曜日に同じメインセットを繰り返していませんか?
最初は効果があったでしょう。しかし、第1章でも触れたように、身体は優秀な適応能力を持っています。同じ刺激を繰り返すと、細胞内のミトコンドリアは「ああ、またこれね。もう適応済みだから頑張らなくていいや」とサボり始めます。
【身体は、慣れる。そして慣れた瞬間、成長は止まる。】
これを防ぐためには、「継続」の中に「変化」を組み込む必要があります。
例えば、同じVO2max向上を狙う練習でも、
- 今週は:100m × 8本(サークル短め)
- 来週は:50m × 16本(セット間レスト短め)
- 再来週は:陸上での高強度インターバル(HIIT)
このように、ターゲットとする生理機能は同じでも、アプローチ(刺激の種類)を変え続けることで、ミトコンドリアに「おっと、今日は新しい刺激が来たぞ! 進化しなきゃ!」と思わせ続けることができます。
マンネリは、作り手の怠慢です。過去の成功体験に縛られず、常に細胞レベルで新鮮な刺激を与え続ける工夫こそが、コーチの腕の見せ所です。
5-3. 言語化が感覚を鋭くする
「フォームを意識しろ」「水を掴め」 コーチなら誰もが使う言葉ですが、これだけでは不十分な場合があります。
第2章で、強度の違いによって体内の代謝物が変わる話をしました(脂質を使うか、糖を使うか)。
この目に見えない体内の変化を、いかに選手にイメージさせるか。これが「感覚のデザイン」です。
「今日は脂肪を燃やす日だから、エンジンの回転数を上げすぎずに、長く回し続けるイメージで」「今日は糖を一気に爆発させる日だから、ラスト10mでガス欠になってもいいから使い切って」
このように、生理学的な根拠を、選手がイメージしやすい言葉に翻訳して伝えること。そうすることで、選手は自分の身体の中で起きている感覚と、コーチの言葉をリンクさせることができます。
練習メニューに魂を込めるのは、あなたの「言葉」です。メニューを渡して終わりではなく、プールサイドでの一言一言が、トレーニングの一部なのです。
第6章:ケーススタディ&実践ワーク
はじめに知っておくべき理論武装はここまでにしましょう。
しかし、現場には「平均的な選手」なんて存在しません。目の前にいるのは、成長期の子どもだったり、仕事帰りの大人だったり、筋肉隆々のスプリンターだったりします。この章では、具体的なターゲットに合わせたメニュー設計のシミュレーションを行います。
6-1. ジュニア選手 vs マスターズ選手
ケースA:ジュニア選手(育成年代)
「目先の結果」よりも「将来の器」を作る
ジュニア期の指導で最も大切なのは、焦って「大人のミニチュア版」の練習をさせないことです。 この時期にすべきことは、代謝の土台(ベース)を作ることです。
- やりがちな失敗: ひたすら距離を泳がせるハイボリューム練習ばかりで、スピードや筋力の要素を無視すること。これでは、エンジン(出力)が小さいまま、燃費だけが良い「軽自動車」になってしまいます。逆に、高強度ばかりやらせると、脂質代謝の土台が育たず、すぐにガス欠を起こす選手になります。
- メニュー戦略: 「バランス」が命です。 有酸素能力(ミトコンドリア)を育てるための長くゆったりした泳ぎと、神経系を刺激するための「正しいフォームでの短距離ダッシュ」を組み合わせます。「10年後に水泳を楽しめているか?」という視点を持ち、目先のタイムよりも、多様な刺激を与えて器を広げることに注力しましょう。
ケースB:マスターズ選手(成人スイマー)
「時間がない」を言い訳にしない、高密度の刺激
仕事や家庭を持つマスターズスイマーの敵は「時間」と「回復力」です。しかし、年齢を理由に強度を下げる必要はありません。研究によると、適切な刺激を与えれば、年齢に関係なくミトコンドリアは進化し、パフォーマンスは向上します。
- メニュー戦略: 長時間泳げないからこそ、HIIT(高強度インターバル)が輝きます。例えば、仕事帰りの45分間しか練習できないなら、ダラダラと1500m泳ぐよりも、「25mハード+25mイージー × 8セット」のような高密度な刺激を入れる方が、細胞レベルでの若返り(ミトコンドリア機能改善)とパフォーマンスアップに直結します。ただし、ジュニアより回復に時間がかかるため、高強度の翌日は完全休養にするなど、メリハリのあるスケジュール管理が重要です。
6-2. スプリンター vs ディスタンス
ケースC:50mスプリンター
もはや「休み」こそがトレーニング
50mのレース時間は20数秒。ここでは「ホスファゲン系(ATP-PCr)」と「解糖系」の爆発力がモノを言います。実は50mレース直後の乳酸値は、100mや200mに比べて低いというデータがあります。これは、乳酸が出る前にレースが終わってしまう側面があるからです。
- メニュー作成の肝: SIT(スプリント・インターバル)を恐れず取り入れましょう。例えば、「6秒全力:54秒休憩」×10セット。「えっ、54秒も休んでいいの?」と思うかもしれませんが、ここでしっかり休まないと、肝心の「爆発的パワーを出す燃料(クレアチンリン酸)」が回復しません。休まずに次に行くと、ただの持久力練習になってしまい、最高速度を上げるという目的が達成できません。スプリンターのメニューには、意図的な「頑張らない時間(レスト)」が必要なのです。
ケースD:1500mディスタンス選手
地味な反復の中に「スピード」を隠し味に
持久系種目は、ミトコンドリア系(酸化系)エネルギーが主役です。エリート選手のトレーニングを見ると、低強度(Zone 1)の練習が全体の大部分を占める「ピラミッド型」の強度分布が多く見られます。
- メニュー作成の肝: 基本は「閾値(LT)」レベルや、それ以下の強度での泳ぎ込みが中心になります。しかし、それだけでは「スピードの予備力」がつきません。長距離選手であっても、週に数回は短い距離でのスプリントを取り入れ、神経系や大きな運動単位を動かす刺激を入れることが、結果的に巡航速度の底上げにつながります。「ゆっくり長く」の中に、スパイスとして「短く速く」を混ぜ込むセンスが問われます。
6-3. さあ、明日のメニューを書いてみよう
ここまで記事を読んだあなたなら、もう「なんとなく」メニューを書くことはないはずです。
明日の練習メニューを書く前に、以下の3つのステップを踏んでみてください。
- ターゲットを決める(Why): 「明日はどのエンジン(代謝システム)を刺激したいか?」 (例:今日は糖代謝を一気に活性化させたい!)
- レシピを選ぶ(How): 「そのために最適なインターバル形式とレストは?」 (例:糖代謝なら、完全回復させないHIIT形式で、レストは短めにしよう)
- 伝える言葉を用意する(What): 「選手にどうイメージさせるか?」 (例:「後半キツくなってからが、今日の本当の練習だぞ」と伝えよう)
最初は難しく考えすぎず、メインセットの「レストを10秒変えてみる」といった小さな変化からで構いません。あなたの書くメニューには、選手の未来を変える力があります。自信を持って、設計図を描いてください。
おわりに:コーチとしての成長戦略
学び続けること、変わり続けること
ここまで読み進めてくださったあなたの頭の中には、今、ATPや解糖系、ピリオダイゼーションといった新しい知識が渦巻いていることでしょう。
「こんなに考えなきゃいけないのか」と少し圧倒されているかもしれませんし、「早くプールに行きたい!」とワクワクしているかもしれません。
最後に、コーチとして最も大切な「成長戦略」をお伝えします。それは、「自分の知識を疑い続けること」です。
スポーツ科学の世界は、日進月歩で進化しています。かつては「疲労物質」の代表格として嫌われていた乳酸が、今では重要なエネルギー源として再評価されているように、今日の常識が、10年後の非常識になることは珍しくありません。
本書で紹介した理論も、現時点での最適解ではありますが、未来永劫の正解ではありません。
「昔はこのやり方で成功したから」という過去の栄光は、時としてコーチの目を曇らせるフィルターになります。自分の成功体験に固執せず、常に新しい情報にアンテナを張り、知識をアップデートし続ける勇気を持ってください。
最高の教科書は、目の前の選手である
本書には、生理学の基礎やトレーニング理論を詰め込みました。しかし、本当に答えを持っているのは、論文でも、この本でもありません。答えはいつも、「プールの中にいる選手」が持っています。
理論上は完璧なメニューであっても、選手がそれをこなして記録が伸びなければ、その理論は「その選手には合わなかった」のです。
逆に、理論的には説明がつかなくても、選手が目を輝かせて取り組み、ベストタイムを更新したなら、その瞬間においてはそれが正解です。
数値データや理論は、あくまで選手を理解するための補助線に過ぎません。
「タイムは悪くないが、泳ぎのキレがないな」「今日はなんだか楽しそうだな」。そんな、数値化できないあなたの「違和感」や「直感」を大切にしてください。その直感の正体を突き止めるために、本書の知識を使ってください。
いざ、プールサイドへ
トレーニングメニューを作る仕事は、孤独で、正解のないパズルのような作業です。
しかし、あなたが悩み抜いて書いたメニューが、選手の可能性を切り拓き、見たこともない景色を見せてくれる瞬間があります。その瞬間の喜びを知っているからこそ、私たちはまた悩み、ペンを走らせるのでしょう。
完璧なコーチになる必要はありません。選手と一緒に悩み、試行錯誤し、共に成長していく「伴走者」でありたいですね。あなたが組み立てる明日のメニューが、誰かの人生を変えるきっかけになることを信じて。素敵なコーチングライフを\( ˆoˆ )/

