アスリートのトレーニング現場では、「乳酸」というワードが頻繁に出てきます。
少し前までは「乳酸=疲労物質」という考えが一般的でしたが、21世紀に入ってから、乳酸は疲労物質ではなく「運動に良い影響を与えるもの」というエビデンスが広く知れ渡るようになりました。
私自身もスポーツ指導の現場に立っていますが、この「乳酸に対するパラダイムシフト」は実際のトレーニング設計に直結する非常に重要なテーマです。
この記事では、乳酸がどのように発見され、なぜ長らく悪者扱いされ、そしてどのように名誉挽回を果たしたのか、その歴史を紐解いていきます。
【この記事の結論】
- 乳酸は疲労物質ではない: 過去に信じられていた「筋肉疲労や痛みの原因(老廃物)」という説はすでに否定されています。
- 実は重要なエネルギー源: 「乳酸シャトル説」などにより、筋肉・心臓・脳のエネルギーとして再利用されることが分かっています。
- 乳酸の主な役割: ミトコンドリアの増殖、毛細血管の新生、筋収縮のエネルギー利用、筋活動による炎症の抑制。
乳酸はいつから「疲労物質(悪者)」扱いされたのか?その歴史
1780年代〜1800年代:乳酸の発見と筋肉との関係
▶1780年: スウェーデンの化学者Karl Wilhelm Scheele氏によって「サワーミルク」の中から乳酸が発見されました。(参考文献:E. J. O. Kompanjeら:2007)
▶1807年: Berzelius氏により「狩りをした後の鹿の筋肉」から乳酸濃度の上昇が確認され、筋肉の活動量と乳酸の増加が関連づけられました。(参考文献:Brian S Ferguson:2018)
▶1845年: Hermann von Helmholt氏により、乳酸が糖(グリコーゲン)から生成されることが報告されました。(参考文献:Brian S Ferguson:2018)
1900年代〜1970年代:乳酸=疲労の原因(老廃物)説が広まる
▶1907年: W. M. Fletcher氏とF. Gowland Hopkins氏が「カエルの骨格筋」において乳酸の蓄積を発見しました。さらに、疲労して乳酸が蓄積した筋肉を酸素の豊富な環境に置くと、乳酸が消失することが判明。これが「骨格筋における好気的解糖と嫌気的解糖」の説明に繋がります。(参考文献:W. M. Fletcher & F. Gowland Hopkins:1907)
▶1922年: Otto Meyerhof氏が「酸素の消費と筋肉内における乳酸の代謝との間に一定の関係があること」を発見し、ノーベル生理学・医学賞を受賞。当時は「筋収縮には乳酸が必要」とも考えられていましたが、この説は後に撤回されます。(参考文献:O Meyerhof:1927 / Nobel Prize Outreach AB 2021)
▶1930年: Lundsgaard氏により、「乳酸の存在に関係なく、筋収縮活動は発生する」ことが判明。筋収縮のエネルギーはホスファゲンの分解から発生し、乳酸は関与しないと主張されました。(参考文献:Brian Glancy:2020)
▶1940年代: Meyerhof氏らの研究グループにより、「解糖系」の代謝経路(エムデン-マイヤーホフ経路)が解明。この頃から1970年代にかけて、乳酸は「筋肉疲労や痛みの原因となる廃棄物」であるという考えが一般的に定着してしまいました。(参考文献:Matthew J. Rogatzkiら:2015)
「乳酸は味方である」と証明されたパラダイムシフト
1980年代:「乳酸シャトル説」の誕生
▶1984年: George Brooks氏により「乳酸シャトル(lactate shuttle)」が発表されました。乳酸は単なる老廃物ではなく、組織や細胞間を運ばれ、筋肉・心臓・脳においてエネルギーとして利用される物質であるという、現在の基となる学説が提示されました。(参考文献:George A. Brooks:2020 / L B Gladden:2004)
2000年代以降:運動エネルギーとして利用されることの証明
▶2002年: Benjamin F Miller氏らの研究で人間を対象とした実験が行われました。乳酸を静脈から注入したところ、運動のエネルギーとして利用されることが示唆されました(動物実験ではそれ以前にも同様の結果が出ています)。このあたりから「乳酸は疲労物質ではない」という正しい理解が少しずつ現場にも広がりを見せ始めます。(参考文献:Benjamin F Miller:2002 / L B Gladden:1991)
近年の研究が示す「乳酸の4つのポジティブな役割」
これらの歴史を経て、現在では乳酸の役割として以下の要素が研究で示唆されています。ただの廃棄物どころか、パフォーマンス向上に欠かせない要素であることがわかります。
- ミトコンドリアの増殖に関与する
- 毛細血管の新生を刺激する
- 筋肉の収縮活動エネルギーに利用される
- 筋活動において発生した炎症を抑制する
私見まとめ
現場のコーチが考える「耐乳酸トレーニング」の本当の意味と活用法
“乳酸は疲労物質ではない。だから乳酸に耐えるなんていうトレーニングは無い。「耐乳酸」なんてワードを使っている奴は今すぐやめろ。”
スポーツ科学の知識が広まるにつれ、時折このような論調を見かけることがあります。たしかに言葉の定義としては間違いかもしれません。しかし、乳酸がたくさん産生されるような運動に耐えることで得られる恩恵があるなら、現場の共通言語として「耐乳酸」と呼ぶことは必ずしも悪ではないと私は考えています。
いわゆる「耐乳酸」と呼ばれるトレーニングは、実質的に「運動強度の高さ」と「運動量(時間)」の両方が大きな数字になるような過酷なトレーニングを指します。
これに対して「活乳酸」や「使乳酸」といった言葉が適切なのかは難しいところですが、単に「高強度トレーニング」というワードを使うだけでは、選手たちの意識が「エネルギー供給システム」に向かない可能性があります。
そのため、私が現場で選手の皆さんに説明するときは、一連の高強度トレーニングに対して「乳酸リサイクル」というワードを使ったりします。
基本的には「乳酸を大量に発生させるような高強度トレーニングをしてから、アクティブレストを追加する」というストーリー仕立てです。メカニズムを論理的に理解することで、日々の苦しい練習の中にも納得感や意味を見出しやすくなります。
まとめと余談:歴史は語り手によって異なる
生理学の歴史に関する論文を読み込んでみて、個人的に感じたことがひとつあります。 それは「歴史は語り手によって異なる」ということです。
乳酸の歴史を追うだけでも、科学の常識がひっくり返る面白さがあります。しかし、だからといって新しい知識を鵜呑みにして物事を拡大解釈するのも危険です。
- 相関関係は因果関係とは違う。
- 過去の説の一部が間違っていたからと言って、全部が間違っているかのように拡大解釈するのは避けるべき。
- 筋肉の活動エネルギー供給システムは非常に複雑である。
乳酸は知れば知るほど面白いテーマですが、フラットな視点で向き合うことが大切ですね。この記事が、皆さんの競技力向上や学びのきっかけになれば嬉しく思います。

