あの人はなぜあんなに努力が出来るのか。
努力をやめてしまった人との違いは何なのか。
今記事では、「努力」についての研究をいくつか紹介していき、努力について一度立ち止まって考えてみたいと思いながら書いています。だれかの努力を少しでも後押しすることが出来たら幸いです。
努力の定義
日本語で「努力」とネット検索すると以下のような意味が出てきます↓
■目標実現のため、心身を労してつとめること。
(広辞苑オンラインより)
■ある目的のために力を尽くして励むこと。
(goo辞書より)
心理学関係の研究論文の中でも「努力の定義」について述べられているものがありましたので紹介します↓
■ある目標を達成するために精神的・身体的活動を主観的に強化すること。
(Michael Inzlichtら:2018)
人は「努力」を本能的に嫌うのか?
「努力」は後天的に身に付けていく
一般的に、努力は嫌われ、回避されるものであると考えられることが多くあるように思います。
「努力と個人の成長」を評価する環境が、「努力的に取り組む意欲」に対してプラスの効果を与えること示すのか?ということを実験した研究論文を紹介します↓
✅人は、努力が評価され報酬を受け取れるプロセスを短期間経験しただけでも、努力を肯定的に評価するようになることが示唆された。さらに、外発的報酬が無い場合でも、高い努力を必要な課題にも取り組むことを選ぶという証拠を示した。
✅人間には「最小限の努力で済む道を選ぶ」という本能的な傾向はないのかもしれない。これらは、後天的に身に付けていったの経験の産物である可能性がある。
(Georgia Clayら:2022) (R Eisenberger:1992)
「努力」すること自体にも価値がある
努力せずに手に入れたものよりも、努力して手に入れたもののほうが大きな価値を感じる(イケア効果)
多くの人は、自分の労働(努力的なプロセス)による成果を過大評価する傾向があるようです。
『イケア効果』という言葉があります。
✅同じ物であっても、他人が作ったものよりも自分が作ったものに対して、より価値が高いと感じる現象を指す。
(Lauren E.Marshら:2017) (Michael I. Nortonら:2011)
「イケア」とは、買った製品を自分で組み立てさせる家具屋さんを指しています。
※お店の人が組み立ててくれるサービスもあるようです。
努力を正当化し、さらには努力自体に価値があるものだと考えることも出来るでしょう。
すでに支払った金銭や時間や労力といったコストを惜しんでしまい、これからの意思決定に影響を与えてしまう(サンクコスト効果)
多くの人は、自分が努力を投資して取り組んでいることに対して、成功する可能性を高く見積もってしまう傾向があるようです。
✅金銭や労力(努力)などの投資を行うと、その努力を継続しようとする傾向が強くなるという現象を指す。
(Torben Ottら:2022) (Hal RArkesとCatherineBlumer:1985)
例えば、スポーツ競技者が何らかのトレーニング手法に時間も金も投資して取り組んだ結果、思うような成果が出ないことに対して合理的な選択が出来ているか?どうかを判断したいときに思い出したい傾向でしょう。
どんな時に「努力」をやめてしまうのか?
必要だと考えられる「努力の量」が自分にとって大き過ぎると、その課題に対する努力自体をやめてしまうというケースはあるだろうなと思います。
努力をしたのに、報われない結果だった場合にも、その課題に対しての努力をやめてしまうこともあるでしょう。
チャリティー募金の方法で比較した実験がありますのでご紹介します↓
✅2つの寄付の過程を用意したチャリティ募金イベントを比較。1つは「チャリティーピクニック(簡単で楽な募金活動)」に参加した集団。もう1つは「チャリティーラン(走るという肉体的努力が必要な募金活動)」に参加した集団。寄付する金額は任意という条件であった。金額は津波被害者へ寄付されるとした。
結果は、チャリティーランに参加した人たちのほうが、より多くの寄付をすることが示された。
✅しかし別の実験では、チャリティーピクニックとチャリティーランの両方を同時に提示し比較された場合、多くの人が「チャリティーピクニック(簡単で楽な募金活動)」を選んだ。
(Christopher Y Olivola and Eldar Shafir:2013)
✅同じ目的のために、明らかに楽な手段が提示された場合、多くの人は努力が必要なイベントには参加しにくい。言い換えれば、代替手段として「より楽なもの」がある場合、努力をすることは無意味であると感じるのである。
これらの研究結果から考えられることは、『もし同様の結果が得られるのだとしたら、多くの人は、より楽な手段を選ぶ』ということです。しかし、「楽な手段」と「キツい手段」の両方が目の前の選択肢としてある状態に限った話かもしれません。
このテーマは少しだけ深掘りしてみたいと思います。
例えば「体重を落としたい!ダイエットしたい」という人がいるとします。その人はダイエットするための手段をSNSやインターネットで検索します。すると、「たった○○で簡単ダイエット!」みたいな情報をたくさん目にするでしょう。キツい食事制限や運動習慣などと比較した場合、簡単ダイエットを選ぶことは明白です。ここで考えなくちゃいけないことは「その選択肢で得たい結果が望めるのか?」ということです。
つまり、選択する対象が高度であればあるほど、知識や経験が必要となるでしょう。言い方を変えると、知識も経験も乏しい人が何らかの選択をする場合は「より楽チンな選択をしがち」であるということになります。その楽チンな選択が、望んだ結果をもたらすものであれば良いのですが…。まぁ、なんでもかんでもより厳しい努力が必要なことを選択していけば良いわけでもないでしょう。スポーツ指導者としては、知識と経験を活かしてより良いと思える選択をしていきたいものです。
興味関心の高いものに対しては「努力」を惜しまない
一般的に、人は難しい課題よりも簡単な課題を選ぶと考えられます。
しかし、あえて努力がより必要な課題を選択するケースもある。それはなぜなのか?という点について調査した研究論文を紹介します↓
✅より大きな努力が必要な課題を、あえて選択する人たちを調査した結果、「その課題に対して興味関心が高い」という傾向があることが示された。さらに、そのような人たちは大きな努力をしたにも関わらず「疲労感も低い」ことが分かった。
「好きこそ物の上手なれ」という言葉があります。
好きなものに対しては夢中になり上達が早いという意味を指します。まさにコレですかね。
私見まとめ
努力を継続している人の特徴としては、
■「努力」を肯定的にとらえている(努力する過程をポジティブに認められるような環境に身を置いていた)
■興味や関心の高いものに対して「努力」を注いでいる
■「努力」を始めちゃったからとりあえず切りのいいところまでやる(努力を辞める自分に出会いたくない)
今記事をまとめていくうちに、こんな感じかなと思えてきました。
「努力」することをジャマする人が少なかったりすることも大切な環境だろうなとも感じます。
まとまらなかった私見
ここからは、個人的にまとまらなかった考えをつらつらと述べていきます。。
「私は努力をしている」と誰彼構わず言う人について
先日、SNSで流れてきた文章を目にしました。
そこには
「努力していることを自分で言うようなヤツは考え直せ。努力を努力と思わないことが重要だ」
みたいな内容でした。
うん。言いたいことは何となく理解できるし私自身においてもそのように考えようと思うこともある。
もし、評価をする立場にある人である場合、「なぜあなたに”私は努力しています”などと言ってきたのか?」ということを立ち止まって考える必要があるように思います。
その理由はおそらく、他の手段や選択肢を提示してほしい、もしくは褒めてほしい認めてほしい。といったものではないかと。
こういったケースは人に何かを伝える上で多々あると思うので、私自身もどうすべきか考えさせられました。
で、個人的に考えて思い浮かんできたのは「異なる2つの視点から伝える」ということでした。
1つは「努力しているあなたは素晴らしい経験をしているのだ。結果も大切だけど努力しているプロセスこそが何よりの経験値なのである」という努力のプロセスをひたすら認めまくる優しい他人の視点。
もう1つは「”私は努力している”って誰彼構わず言っちゃうような人は”かまってちゃん”だと周囲から見られて人が遠ざかったりするぞ」という世の中の厳しさを知っているかのような他人の視点。
努力しているプロセスへの再評価と、承認欲求的なものへの対応を分けて考えていくことが大切なのかな。ここのさじ加減って、ちょっぴり難しいよね。
以上がまとまらなかった私見でした。
そろそろ水泳に関する記事を書いていきたいと思います。
最後に
責任の取れる(と個人的に思う)範囲で言い切っていきたいね。